幽玄の森

一般大に通うアマチュアテューバ吹きによる、コンサート感想中心のブログ。たまに聴き比べや音楽について思うことも。

1958年の交響作品群 5/17 野平さん&ニッポニカ

5/15(金)の下野さん&日フィルに続き、5/17(日)はこちらの演奏会へと足を運びました。いつのまにか演奏から時間が経ってしまいましたが…。

オーケストラ・ニッポニカ 第27回演奏会
@紀尾井ホール
指揮:野平一郎さん
【1958年の交響作品群】
芥川也寸志:エローラ交響曲
三善晃:交響的変容(舞台初演)
武満徹:ソリチュード・ソノール
矢代秋雄:交響曲
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2つのオーケストラで矢代の交響曲を聴く、そんな、週末。名曲だもの、いいじゃない。邦人作曲家の作品も、ここまで演奏されるようになった。

指揮は、現代を代表する作曲家・ピアニストの野平一郎さん。実は僕は、この方が一橋の兼松講堂での演奏会に出演された際、ちょっとした奇縁で打ち上げで同席させて頂いたことがあります(アマチュアはあの場に僕を含め3人しかいなかったし、そのお2人は安らかにお眠りに…)。
ジュースで過ごした僕はもちろん寝るはずもなく、出演者の方々がお話しされているのを聞いていました。オケのずいぶん裏の話も聞けました(笑)
やがて、どんな曲が好きなのと尋ねられ、ブルックナーマーラーと並んで、日本の作品が好きだとお答えしたところ、邦人作品はもっと演奏されるべきだという話題で盛り上がり、1時間余り続きました。あれはちょうど今から1年前くらいのことです(水響の方々と縁ができたのもこの日)。

その野平さんが指揮する、ニッポニカ。このオケも、邦人作曲家好きとしては当然行きたいと思い続けていたものの、これまでは都合が合いませんでした。これはもう、行くしかないと。

学生券は1000円で、僕の席はL側バルコニーの、ちょうどステージの脇にあたるところ。生音がしっかりと聴こえて来る席。現代ものはわからない曲でも生を聴け、を信条とする僕にとってはありがたいことです。

1958年という年に焦点を当てた凝ったプログラム。開演前に野平さんによるプレトークがあり、その中で印象に残ったのは、「この時代にはまだ、日本にはオーケストラ作品を書くに当たっての伝統というべきものがなかったのではないか」との言葉。戦前には山田や橋本の交響曲などあるものの、たしかにそれが伝統として根付いてはいなかったでしょう。その中で、日本の作曲家としてのアイデンティティをどこに求めるかという根源的な問いに、それぞれの作曲家はどう挑んだのか。それがこの日のテーマ。

スコアを読んだわけではなく、また聴いてからいつの間にか時間も経ってしまったので、1曲ずつ細かく述べる力はありませんが…。

1曲目、エローラはとても丁寧な演奏。前半の何やら得体の知れぬ不協和は弦楽器の厚み(人数は多くないのに!)と、かっちりとはまった打楽器群が印象的。後半の東洋風舞曲は本当に楽しげで、そこに前半の不穏な空気が合流すると、トロンボーンテューバの轟音とトランペットの正確かつ輝かしい音色が鳴り響く。僕にとってはこの曲の理想的な演奏でした。

2曲目、三善。この人の曲は、現代的ながらもどこか優しさや温かみを感じます。この曲もそう。岩城さんがN響で放送初演して以来の、舞台では初めての演奏とのこと。なんと9つもの動機を複雑に組み合わせながら変容させた曲とのことで、その9つ全てを聞き取ることは僕にはとてもできませんでしたが、全体の曲の構成は分かりやすく、実演で聴けば凄みが伝わってくる楽曲。また再演の機会があれば是非聴きたいですね。この曲の演奏も丁寧なもので、三善さんの知られざる曲を世に紹介しようという意欲と誠実さに溢れたものでした。

休憩挟んで3曲目は武満。これも初めて聴く曲。この頃はまだ若かったとはいえ、既に後の作品と同様の節回しや韻律が確立されている…。後の時代の作品より直情的で凄みのある曲。うーん、武満は好きですが、語る言葉を持たないですね、僕は…。

そして矢代の交響曲。この曲は2日ぶり2度目の生演奏体験。下野さんと日フィルの演奏も素晴らしいものだったが、果たしてこの演奏はどうか。
これまた素晴らしいものでした…!1楽章は彫りが深く非常に丁寧な演奏。冒頭の弦楽器による不穏な序奏から引き込まれます。何度も出てくる金管の印象的な暗いコラールは、轟音に過ぎては曲がぶち壊しになるものですが、適度なバランス、適度な暗さ(実はこの点で納得のいく演奏はなかなかない)。
2楽章はインテンポで一糸乱れず突き進む。後半のトランペットのかけあがりがまた素晴らしい…!
3楽章、冒頭のコーラングレのソロはこれ以上にない理想的なもの。後半の弦楽合奏と抑制の効いた打楽器はうまく対比されていました。
そして4楽章。全曲を貫くF-H-Fis の動機が、バスクラによって印象的に鳴らされ、続くフルート・ピッコロの強烈な音が更に不安を掻き立てる。低弦も完璧。ここからの興奮はもう筆舌尽くしがたく、金管の轟音も、打楽器も、木管群も、オケが持ちうるエネルギーを四散爆発仕切った凄絶な、しかし決して暴力的に過ぎない素晴らしい演奏でした。特に、金管楽器は、ただ爆音ではなく、アタックに頼らない芯のある、オルガン的な吹奏加減。フランクの交響曲ブルックナーに通ずるものがあるこの曲、金管はこれがまさに理想的で素晴らしかったです。

それにしても、このオケはなんでこんなに複雑な曲ばかりを仕上げてくるのでしょうか。とても考えられない…。是非また聴きに来たいものです。

実に40作もの作品を委嘱する「日本フィルシリーズ」を続け、近年はその蘇演も行っている日フィル。あまり顧みられない作品を中心に邦人作品を紹介してきたニッポニカ。日本作曲界の歴史を私たちに実演で紹介し続けているプロアマそれぞれの団体を聴くことのできた、稀有な週末でした。
矢代とエローラはいずれ演奏したい…!

日本フィルシリーズに聴く戦後日本音楽系譜 15/5/15 下野さん&日フィル

過去最大の金欠ですが、定期会員券を無駄にするわけには行かないので日フィルへ。この公演も今シーズンのチケットを買った目的の一つでした。

日本フィルハーモニー交響楽団第670回定期演奏会@サントリーホール
指揮:下野竜也さん
【日本フィル・シリーズ再演企画第8弾】
黛敏郎:フォノロジー・サンフォニック
林 光:Winds(第24作)
三善晃:霧の果実(第35作)
矢代秋雄交響曲(第1作)

日本の作曲家による管弦楽曲。自国の作曲家というのはその国の音楽界で守り育てられるべきだと僕は思うのですが、日本ではほとんどそういった伝統はない。理由は色々とあるでしょうが、①戦前の作曲家は戦前体制翼賛と決めつけられて封印されてきたこと(橋本國彦や信時潔が良い例)、②戦後、日本的なメロディーなどを曲に盛り込むことが国粋主義的として避けられてきたこと(伊福部昭など)、③戦後の作曲家は難解な現代音楽として忌避されてきたこと(三善晃黛敏郎芥川也寸志など)、④映画音楽がクラシック音楽の聴衆に関心を持たれなかったこと、⑤西洋への憧憬とその裏返しとしての日本音楽蔑視傾向、などがあると思います。
ここはそれらを語る場ではないと思ってるのでこれくらいにしておきますが、とにかく、多くの名作が埋もれてしまい、実にもったいない。昨今はナクソスの「日本作曲家撰緝」シリーズが流行り、だいぶ普及もしてきましたが(僕はこのシリーズにクラシック聞き始めた初期から触れています)。
そういう意味で、長年「日本フィルシリーズ」と題して多くの作品を委嘱してきた日フィルはやはり偉大だと言えるでしょう。今日の演奏会は、それら「日本フィルシリーズ」の蘇演。

そしてなんといっても、今日の指揮は下野さん。日本の作曲家を得意としているし、またある種の使命感を持って演奏しているように感じます。

特に楽しみだったのが、矢代の交響曲。昔ナクソスの湯浅さんによる演奏で圧倒され、しかし「この空間的広がりを生で体感したい」と思い続けた曲。下野さんの指揮で実現したのは本当に嬉しい。

矢代の交響曲を除けば、僕がちゃんと聴き込んだことのある曲はなかったので、演奏がどうだったという感想はあまりありません。しかし、会場は(もちろん僕も)熱気に満ちていたし、一見難解なそれぞれの曲を「いい曲だな」と感じさせたのが下野さんと日フィルの演奏でした。曲の良さをそのまま感じさせる演奏というのは、ありそうでなかなかないものですから。

1曲目。黛。この曲は「涅槃交響曲」の前年に書かれた曲で、日本の寺院の梵鐘の音を研究してきた成果が表れた曲の一つ。日本的、東洋的なサウンド、しかしながら、メシアンやヴァレーズやシュトックハウゼンのような、叩きつけるようなある種暴力的な展開…。ひたすら圧倒される…。残念ながら僕は曲の中に組み込まれたシェーンベルクメシアンやヴァレーズの変奏まで聞き取る耳を持ちませんが、この熱狂はやはり実演でしか味わえない。貴重なものを聞きました。

2曲目、林。70年代に日フィルが困難にぶち当たった時期に4年間「日本フィルシリーズ」は中断、その再開に当たるのがこの曲とのこと。その困難とは何かまで解説には書いてありませんが、それにここで触れるのもナンセンスというもの。世間じゃ色々と書かれていても、それぞれの音楽家、事務局など当事者には各々思いがあり、また真剣に行動した結果なのだろうと思うので、ああいう風説書きの類いは僕は好みません。

話がそれてしまった…。この曲が書かれた頃は学生争議や労働争議の時代であり、平明な曲を書いてきた林にも揺れがあった、そんな時期の作品らしい。木管による歌謡性に満ちた動機、軽やかに吹く自由の風。突如それを制止する、日本の伝統音階を使った金管トロンボーンの不協和音による絶叫、沖縄音階によるユートピア風の音調、しかし突如として曲は終わる。
随分と政治的・社会的な意図を感じさせる曲。これ以上この曲について語る言葉を僕は知らない…。この時期にこの曲を選んだというのも、1つのメッセージなのだろうか…。僕がそれについてどう思うかはここで書きません。ぼかした書き方しかできない。

3曲目、三善。三善さんも亡くなって2年経ちました。この曲には彼の幼い頃の戦争体験が響いているらしく、「霧の果実」とは、霧のように雲散霧消してしまうはずの戦争の死者の声、それらを果実に、形にしたいとの思いから書かれた曲なのだとか。
その性質ゆえに、姿形を明確には表さない漂う声。その漂う霧が、コントラバスハーモニクスに乗せられ、次第に濃くなり、やがて鮮烈な形を持ち始める。激昂、絶叫、地獄の叫びか…。その頂点に、金管による祈りのようなコラールが鳴る。しかし結局、地獄から這い上がるかのような騒音に掻き消されてしまう…。
こういった場面展開を極めて明瞭に描き分けた演奏だったので、金管のコラールは平和への痛切な祈りとして響いたし、その前後の暴虐への怒りもまた共感できるものでした。音楽を聴くなら本来当然だとお叱りを受けるかもしれませんが、それにしても色々と考えさせられる…。

休憩を挟んで、現代日本交響楽の1つの頂点、矢代。フランクに心酔していたという彼の交響曲は、循環主題と変奏が多く盛り込まれた曲。折しも前日のサントリーホールはスダーンと東響によるフランクの交響曲で、何か運命的なものすら感じます。

1楽章、この曲の中心動機が明瞭に描き出され、曲の輪郭をはっきりと掴ませてくれる演奏でした。この曲でそれは非常に重要なもの。
2楽章。神楽囃子を現す「テンヤテンヤテンテンヤテンヤ」のリズムと言われるこの楽章。今日の演奏はやや遅めで、「日本の祭りとはちょっと違うかな…」と最初感じたのですが、その一歩一歩踏みしめるような確かな歩みもまた説得力のあるもの。
3楽章レント。冒頭のイングリッシュホルンのソロは歌謡性たっぷりに、それでいて曲を損なわない素晴らしいもの。弦楽器の弱音は決して響きを失わす、日フィル特有の透明感ある弦楽合奏がいかに素晴らしいものか実感。この弦楽に乗せられ、ティンパニ、シンバル、ウッドブロックら打楽器群の変奏。これがまた大変素晴らしいもので、寸分たがわず強弱・テンポ感の変化を描き分け、同じ音列の繰り返しに一切飽きることがない。
アタッカで入る4楽章の異様な緊迫感。低音木管とピッコロの深く迫ってくる神楽風の響き。弦楽によるアレグロの第一主題は決して勢いに任せて逸ることなくピッコロ・コントラファゴットの第2主題へ。これらの主題、動機がいくつも複雑に絡み合った末に、曲は頂点に達し、金管による圧倒的な勝利のコラールへ。持てるエネルギーを全て放出し尽くしたオケに圧倒され…。ちなみに、この曲の終わりかたはまさしくフランクだなあと実演聴いて初めて実感しました。

前半3曲と異なり、調性に近づいており、一言で難解と片付けるにはもったいない、ロマンティシズムを感じさせる場面すら随所に内包するはずのこの曲。現代ものを聴かない多くの人が聴かずに放置してもったいないこの曲を、これほど濃淡の微妙な色合いをはっきりと描き分け、魅力たっぷりに演奏した下野さんと日フィルに感謝。圧倒的な名演出会ったし、やっぱり矢代の交響曲は圧倒的な名曲だと感じさせられました。

各曲のカーテンコールでは、下野さんがスコアを両手で掲げて客席を向き、それに対して会場から万雷の拍手とブラボーの声。全曲終演後には下野さんが4曲全てのスコアを持ってきて譜面台の上に置き、譜面台に向かって聴衆・オケとともに拍手。この人の誠実さを感じるとともに、日本の現代音楽もしっかりと受容されているのだと実感し嬉しくなりました。

やはり、現代曲は生で聴かなければ、いや、感じなければ…
その体験がまだ少ないために、語る言葉が足らず、こんな稚拙な文章になってしまった…。

オペラシティで聴くブルックナー 5/9飯守さん&シティフィル

自分のオケ練習の前に暇を縫って行ってきたのがこちらの演奏会。
5/9(土) 14:00開演@東京オペラシティ タケミツメモリアルホール
東京シティフィルハーモニック管弦楽団 第289回定期演奏会
指揮 飯守泰次郎
ブルックナー:交響曲第8番(ノヴァーク版 第2稿)

僕はブルックナーエルガーが好きな作曲家の筆頭で、飯守さんのブルックナーなら悪かろうはずがない!と楽しみにして聴いて来ました。最近のインキネン&日フィルやカンブルラン&読響のブルックナーも聴きたかったものの叶わなかったので…。そして何より、オペラシティの残響の中で、力みのないシティフィルのサウンドでブルックナーを聞くというのが、今回の目的です。ブルックナーの作品のなかでは、とりわけ8番は5番や9番と並んで最高傑作だと思っています。

演奏会前の飯守さんのプレトークを、4楽章の解説に入る辺りから聴かせていただきましたが、思い入れたっぷりにピアノを弾きながらの解説。4楽章冒頭に提示される主題の調性的な常識から逸脱した進行、また曲の最後で「ブラームスベートーヴェンのような力強い勝利と比べると軽い終わり方で、ブルックナーの純粋さを感じる」など、興味深かったです。

開演直前、3階Lサイド のバルコニーからポーチのようなものがステージ上に落下。確かにオペラシティのバルコニーは僕も座るとヒヤリとするものですが、気をつけて頂きたいものです。。。

ともあれ演奏は無事に始まり。1楽章。シティフィルは弦楽器のサウンドが無理な力みのない自然体なもので、オペラシティを豊潤な響きで満たしてくれます。ホルンやテューバはトラの方でしょうか、綺麗に溶け込んでいました。
1楽章では飯守さんがテンポを執拗に煽り立てるかのような指揮をされる場面が多く、失礼ながらオケが戸惑ってるのでは?と感じるポイントが目立ちました。精彩を欠く、などと言っては御大や音楽ファンの皆様にお叱りを受けましょうが、何かしっくり行かない雰囲気。強弱や語り口は説得力あるのですが…

2楽章。Cのあたりで木管が噛み合わない箇所があったものの、自然なテンポでブルックナー独特のスケルツォをドイツ的に雄弁に語り、Trioへ。ここでの深淵な響きはなかなかのもので、オペラシティのキャパを自然に生かした心地よいサウンドの上に金管の咆哮が見事に乗り、胸一杯になりました。

3楽章。2楽章Trio同様、慈愛に満ちたサウンドで進行します。ただ、どこかせかせかした印象を受けました。もっと幽玄の森をさまよっていたかった、という感じ。サウンドはまさに幽玄そのものでしたが。テンポが何よりそうだし、ブルックナー特有の、ブリッジほとんどなく次の動機へと移行する場面で、繋がりが悪いと感じました。これは僕が普段、ハース版に慣れているせいもあるかと思いますが…。

4楽章はトランペットの強烈な音に冒頭から打ちのめされ、そしてティンパニが素晴らしい。「これぞベテランティンパニ奏者によるブルックナー」といった趣。しかしこれもどうもせかせかした印象は拭えず。そして各動機の間の繋がりが悪い、あるいは間が持たない印象。また強奏Tuttiでのサウンドの混濁っぷりがやや残念でもありました。想像以上にあっさりとした4楽章でした。

とまあ不満が随分あったかのような偉そうな口調で書き散らしてしまいましたが、僕の一番の目的であった「オペラシティの響きを活かしたブルックナーが聴きたい」は充分に果たせました。弦楽器、特に1stVnとVaはここぞというときにはっきりと出てきながら、常に冷静さを失わず透明感を維持しており、こういうブルックナーも良いなと思いました。
テンポなど、僕の好みではありませんでしたが、ワーグナーの延長上に明確に位置付けられた、説得力のあるものでした。
思い入れの強すぎる曲は実演で聴くと難しいもの。。。なかなか大満足とはいきませんね、
ブルックナーも聖域化せずに色々な解釈が認められて行くべきだと思いました。

終演後、自分の練習があるので2回ほどのカーテンコールでそそくさと退出しました。あまりやりたくはなかったのですが。。。
それにしても、終演直後のフライングブラボーと拍手がなければ、もう少し余韻を味わいたかった…。

アマオケも色々  4/19湯浅さん&新響

所属する大学オケのスプリングコンサートを終え、新歓ももうすぐ一区切りというところで、コンサートに出かけました。

交響楽団第239回定期演奏会東京芸術劇場

指揮:湯浅卓雄さん

ショスタコーヴィチ:祝典序曲

橋本國彦:交響曲第2番

ショスタコーヴィチ:交響曲第10番

 

国内有数のアマオケ、新響の演奏会。指揮は僕が好きな指揮者の一人、湯浅さんです。まず、このプログラミング。ショスタコの10番は難易度が高く、アマオケの選曲では忌避されがち。そして橋本の2番。この曲の実演機会はまずないし、しかも指揮するのは同曲の蘇演録音を行った湯浅さん。これに心惹かれて行った演奏会です。新響を聴くのは前回に続けてこれが2回目。

 

1曲目、祝典序曲。ショスタコーヴィチ特有の悲嘆的な三拍子が弦楽器によって手堅く響き、木管群のソロ・ソリはほぼ完ぺきに纏め上げられ、金管はここぞという時に剛毅に鳴らす。この曲においてほかに何を求めるでしょうか。エキストラの方も多いはずのバンダまで、オケ全体のアンサンブルが整っていて感嘆しました。

 

続いて橋本の2番。まず一般にあまり知られないこの曲について。橋本國彦は主に千前期に活躍した作曲家で、欧州において新ウィーン楽派や近代フランスなど当時最先端の作曲技法を吸収して、平易なメロディーや和声とモダニズムの折衷を試みた人物。その一方で日本歌謡なども作曲し、また現在の芸大音校で後進を育てるなど、幅広い分野で活躍した日本近代音楽の父ともいえる人です。しかし、戦前に国威発揚的な作曲(交響曲第1番など)を行ったために、戦後は芸大から退任を余儀なくされ、不遇な晩年を過ごして1949年に44歳で世を去りました。

交響曲第2番は、戦後、新憲法発布の日の式典用に書かれた曲。この時の初演はラジオでも放送されたとか。しかし、初演後は、2011年にナクソスからCDが発売されるまでの間しばらく日の目を見ることはありませんでした。2楽章形式のこの交響曲において、祝典的雰囲気を持つ平易なメロディや明るい色彩感を伴った管弦楽法は橋本の得意とするところで、この曲にもその才は感じられますが…。しかし、どこか暗く、内向的。分かりやすい主題が冒頭から提示され、展開していくにもかかわらず、どこか盛り上がりきらない。戦前の橋本の作品、交響曲第1番などと比べると、その色調の差は明らか。戦後の橋本の複雑な心境を吐露しているのかもしれません。戦前の当局に迎合した(本心かは分からない)作品群ゆえに戦後はその職を失い、しかも新憲法発布に際して今度はまた戦後体制の賞揚のために作曲を求められる。平和を願い、また祝賀もしていたかもしれないが、しかしただ素直に祝うこともできない。

今日の演奏は、この曲そのものを忠実に表現しようとする名演でした。1楽章では厚いヴィオラ・チェロや木管群によって、主題の展開が丁寧になされ、橋本特有の変奏曲形式による2楽章では各変奏が分かりやすく奏でられ、曲の魅力が十分に伝わりました。2楽章最後のハープや鐘が入ってから終結に向けては、適度に抑制された演奏ゆえに感動的。

 

後半のショスタコ10番。戦前戦後と時代に翻弄された橋本同様、ショスタコーヴィチもまた当局との関係などに制約された作曲家であったのはよく知られるところ。『ショスタコーヴィチの証言』が偽書か否かはともかく、体制側、とりわけスターリンへの抵抗的作曲によって何度も処分や批判の憂き目に合ってきた彼が、スターリンの死後ようやくある程度の作曲自由を手にし、おもいのままに表現したのがこの10番。曲は暗く、攻撃的であり、しかしどこか輝かしさも伴う気がします。

1楽章、祝典序曲にも見られたショスタコ特有の三拍子による陰影描写。弦楽器によってその微妙な色合いが繊細に表演されていました。特に中低弦の厚みと安定感が素晴らしい。2楽章は、ドゥダメルのような「煽り立てる熱い」演奏などではなく、手堅く、楽曲を忠実に演奏しようとするもの。大変好感を持ちました。3楽章では独特の暗い舞曲が丁寧に奏され、強弱やアクセントの微妙な違いなど、彫りの深い表現が印象的。DSCH音型がはっきりと聴き取れます。そして4楽章。3楽章同様の陰鬱なandante序奏とクラリネットのファンファーレに導かれるallegroとの対比がはっきりと描き出され、充実した演奏。木管を中心とした各ソロや打楽器群の上手さが光ります。

橋本とショスタコーヴィチ。国も時代も違いながら、ともに政治的影響を受けて時代に翻弄されたという点で、共通点があるように思われるこの2人の作曲家を並べるプログラミングの妙を感じました。新響の演奏はどの曲も、純音楽的に楽譜に忠実に演奏しようとするもののように感じられ、それゆえに逆に曲の持つメッセージ性が伝わってくるものでした。

 

以下は演奏会の感想というより、自分の雑感。

2回続けてこのオケを聴いて、人の好みはあろうと思いますが、少なくともトップレベルの演奏力を持つアマオケには違いないと思います。プログラムや指揮者、運営形態まで、多くの点でアマオケらしからぬ点の多いこのオケ。どこか格調高すぎるきらいもありますが、これも一つのアマオケとしての到達点なんでしょう。

今や都内には何百ものアマオケが並び立つ。その中にあって、団の規模を維持・発展させ、聴衆の方々にも支持して頂き、また自分たちにとっても達成感のある活動を続けること。これはとても困難なことになりつつあると思います。新響のような志向もあり、あるいは特定のジャンルに特化したオケもあり。それぞれが存在意義、ポリシーを持っていれば、そのオケはきっとこれからも活発な活動を続けていくことでしょう。

では自分たちのオケがそのように活発に活動を続けるためには何ができるか。大学の団体であるという特性上、特定の志向を持つことはまずないでしょうが、それは一方で「寛容性」「多様性」を持てるということでもある。いろんな背景を持った同世代が一つの場に集まることで、あらゆる刺激を受けることができる。その結果できあがるものは、志向が定まった団体とは異なって、最初は全く見えない。だからこそ面白い…。

こんなことを考えながら帰路につきました。

 

とても充実した演奏で素晴らしかったものの、演奏中アクシデントが2つ。1つ目は橋本の1楽章と2楽章の間で、1階席の方のスマホ防犯ブザーアプリが鳴り出し、その方が退出されるまで2楽章の演奏を待つことに。楽章間であったのが幸いでしたが・・・。2つ目はショスタコ10番2楽章の直後にお一方だけ「ブラボー」の声が。気持ちはわかりますが…。

そのほかも客席での動きが気になってしまう場面が多くありましたが、しかしこんなことをきつく言うと客層が限られてしまいますから難しいですね…。

 

他のオケを聴きに行くたびに何か考えさせられてますが、考えすぎ、という自覚はあります…。

祝祭管聴いてきた

すごく今更なんですが、3/15(日)に聴いたこのコンサートの感想。実は下書き保存してたんですが、諸事情で投稿控えてました。

久世武志指揮
TBSK管弦楽団第4回定期演奏会@新宿文化センター
ジョン・ウィリアムズ:「スターウォーズ組曲
ヒナステラ:組曲「エスタンシア」
ガーシュイン:「パリのアメリカ人」
バーンスタイン:キャンディード序曲

TBSK管弦楽団、通称「手羽先オケ」は、都内の大学生横断適任活動してるオケで、特に一橋オケと密接な東工大オケの現役・卒団生の方が多く乗ってらっしゃいます。その縁で今回は一橋の関係者も多く乗っており、卒団生含めて一橋オケ団員11人。馴染みある顔が随分みられるオケでした。ちなみに、6月にこのオケがオペラ伴奏をつとめるのですが、僕も乗らせていただくことになりました。

さて、まずこのプログラム。むちゃくちゃだ‥‥とも思いますが、まあどこかで見覚えのあるような‥‥去年の一橋祭祝祭管もこんなもんでしたね‥‥でもこのオケは弦楽器に全乗りか多数いたので、もっと大変でしょう。。。
それにも関わらず、演奏している人達がみんなすごくイキイキしてるんです。知ってる人もいっぱいいるわけですが、「あの人こんなに楽しそうに弾くんだっけ‥?」などと思いながら見てました。そういう雰囲気ってのは客席側にも伝播するもので、こちらまですごく楽しい。

1曲目、スターウォーズ。僕も去年2回くらい代吹きした組曲ですし、吹奏楽向けの別な組曲を過去にやったこともあるので、曲は身に染み着いてるんですが、あっと驚かされる場面が所々ありました。全体的にはザッハリッヒなテンポ設定と展開ながら、「えっ、そこで溜めるのか‥‥!」とか。この指揮者の先生、お名前の通り一クセも二クセもある方(笑ってくれ頼む)。

2曲目、エスタンシア。めっちゃ楽しい‥‥!いいっすね、こういうの。ラテンアメリカの陽気な音楽、もっと取り上げる機会あれば良いのになあ。冒頭で言った「奏者が楽しそう」と特に感じたのがこの曲。ところでシロフォンの方はいったい何者ですか‥‥。「エスタンシアやりたい」って思いましたが、テューバどころかトロンボーンもないですね。バスドラ練習します。

3曲目、キャンディード序曲。これも祝祭管でやりました。楽しい演奏です。金管も打楽器も、要所でしっかり出てきて、全体のアンサンブルは乱れない。中間部での弦・木管の響きの美しさは格別。

4曲目、パリのアメリカ人。トランペットソロは昨年一橋のサマーと定期に客演したお馴染みのあの方。何というか、エロい音だな‥‥笑 トロンボーントップもよく知ってる人ですが、ファーストを本格的に聴くの初めてかも。うまい‥‥。全体に、ジャジーな雰囲気がとてもよく出たいい演奏でした。

アンコールはアンダーソン「プリック・プランク・プルンク」とスーザ「星条旗よ永遠なれ」の二本立て。随分見覚えありますね‥‥笑 アンコールにありがちな身内ウケの演奏じゃなくて、最後まで楽しませて頂きました。実はこの日、自分のオケの挟み込みに朝来ていて、作業の脇でステリハ聞こえちゃってたので、「アンコールをお楽しみに!」ではなかったのですがw、それでも楽しかったです。ピッコロ、随分派手なことをやってくれてました。

このあと本当は別のオケ(世田響メモリアル)にうかがおうとしていたのですが、急用も入り叶わず。また次回乗るので色んな人を特定しようと思ってましたが、それもあまり叶わず。残念


冒頭にも書いたんですが、本当に楽しかったし、ステージ上の皆さんも楽しそうだった。特に知っている顔が生き生きとしているのを見ると嬉しいと同時に‥‥
実はちょっと、この演奏会の後、ちょっと悩みが生じました。あれだけ楽しいオケってどうやったら生まれるのかなあ、と。僕らもあんなふうに奏者が楽しめるオケでありたいし、今までよりもっとそうなるためにできることはやりたい。そのために何をやればいいのか‥‥。こういうふうに考えすぎるのが逆に良くないのかも知れませんが‥‥。もちろん今も自分が所属するオケが楽しいし大好きなんですが。
奏者としての楽しみと演奏精度(≒聴衆の楽しみ?)は、時に重なり、時にぶつかる気もします。この両立は案外難しい。また、団体として楽しいものにしていくためには、時に個人の希望とは矛盾することもやらなきゃいけないかもしれない‥‥。それでも楽しめるには‥‥

前からこんなこと考えていたんですが、この日からそういう思いが強まりました。こんなわけで、公開するのをちょっとためらってたわけです。。。でも合奏を心から楽しんでいる今なら書けるかなと思って。答えはじっくり探していこうかなと思ってます。

とにかく、楽しい演奏会をありがとうございました。オペラに乗られる方、お世話になりますよろしくお願いしますm(__)m

静と動 3/20ラザレフ&日フィル

先月末からブログ更新してなかったのは、飽きたからでもコンサート行かなくなったからでもなく、書く気分になれなかったからです。自分がコンサート楽しんでいていいのかと疑問に思うこともあったので‥‥。落ち着いてきて、久しぶりに書いてみます。

今日はこちらを聴いてきました。
3/20(金)アレクサンドル・ラザレフ指揮
日本フィルハーモニー交響楽団@サントリーホール
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番(P:ルージン)
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」

前半のピアコン。ルージンはとても繊細な音を出すピアニストで、それに合わせてか、オケも全体的に落ち着いた表情。ショスタコとなるとどうしても力みがちなものですが、今日の演奏にはそんなところはほとんどなく。一部物足りないと感じる部分もあるにはあったのですが、これだけ自然体でショスタコをやるというのが、日フィルにロシアものが浸透しきったと言う証左なんでしょう。透明感のあるサウンドゆえに、1楽章の皮肉めいた節回しも、2楽章の耽美的な旋律も、すべてすっと身に入ってくる。いい演奏でした。

アンコールはプロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番「戦争ソナタ」終楽章。こんなの普通アンコールに持ってきませんよね‥‥。軽快でいて、しかし深みのある不思議な演奏でした。


そして後半、いよいよ11番。大好きなこの曲を実演で聴くのは前年夏の森口先生指揮オーケストラダヴァーイ以来、2度目。あれも大変な名演だったんですが、ラザレフの指揮とあって今日もまた期待は高まるばかり。

冒頭、1音目から、前半とは全く異なるサウンド。日フィルってこんな音だっけ?と。1楽章は全体に一歩一歩踏みしめていくような、落ち着いたテンポ。弦の透明感はもちろんながら、管打楽器の要所を抑えた冴えが目立ちました。特に1楽章のトランペット、ホルン。これは本当に素晴らしく、ホール全体に響く良い音‥‥!

2楽章、冒頭弦のアンサンブルが冴えます。静寂の後に導かれる「血の日曜日」では、打楽器の素晴らしさに圧倒され‥‥。ここでテンポなど大見得を切らず進んでいくので、恐怖が逆にひしひしと伝わってくる‥‥。その後再びの静寂。祈り。

3楽章、冒頭のヴィオラ最弱音から始まり、これも引き締まった演奏。3楽章はこれまでと打って代わり、快速。この楽章をこれだけ劇的なものとして聴いたのは初めてかも。4楽章に向けて少しずつ高まります。

そして4楽章。冒頭から金管が咆哮します。ここは急がす、再び踏み締めるかのように進んでいきました。そしてワルシャワ労働歌、こちらもテンポは変わらず。余計にリアリティーがあります。1楽章同様の静寂が訪れても、緊張感は変わらず。息もつけません。
そして打楽器に導かれクライマックスへ、、、ただただ圧倒的、筆舌しがたい終末。サントリーホール中を大音響が貫く‥‥。
指揮者が手を下ろすまで拍手が起きず、鐘の音が鳴り響いていたのがよかった。

終演後、マエストロ・ラザレフのサイン会に並びました。CDは日フィルとのマラ9。マエストロの「立ったままサインしたい」とのご希望により、なんと楽屋入りできることに。写真こそ撮れませんでしたが、サントリーホールの楽屋はとんでもなく豪華でした。

ちなみに、今回から僕は日フィル金曜東京定期の学生会員になりました。一番好きなオケだけに、これから楽しみです。

飽くなき探求の果てにあるのは…… 2/13カンブルラン&読響

このブログに感想を初めて書くコンサートはこちら。

2/13(金)19:00開演 @サントリーホール
読売日本交響楽団第545回定期演奏会
指揮シルヴァン・カンブルラン

武満徹:「鳥は星形の庭に降りる」
バルトーク・ベラ:ヴィオラ協奏曲(Va:ニルス・メンケマイヤー)
チャールズ・アイヴズ:「答えのない質問」
アントニン・ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界から」

コンサートを終えて、この4曲を通して一つの音楽物語を見せられたような、不思議な感覚を覚える。
カンブルランの大きな特色、プログラミングの妙というものを見せつけられました。なお、指揮者の希望により、答えのない質問と新世界はアタッカで(棒を下ろすこともなく)演奏されました。僕自身は正直「バルトークのコンチェルトとか武満は聴きたいけど新世界は別になあ……」と一度パスすると決めたものの、やはり前半2曲が聴きたくて結局来ることに。結果としては、新世界まで聴いて良かったです。

ちなみに、特別学生券で得たのは、LDブロック3列目のA席(!)。ステージとの距離が遠いためお風呂場状態かと思いきや、そんなことはなく、極めて良好な席でした。とても運が良かった。

1曲目、「鳥は星形の庭に降りる」。僕は武満作品の空気感が好きで、特にオーケストラを見下ろすような席で、舞い上がってくるサウンドを味わいたいと思っていたので、サントリーの2階で聴けて本当に良かった。調性にやや接近し、喧騒とは離れたたこの曲では、弦楽器の生み出す、「静と動」の微妙な色彩感がカンブルランの指揮のもと絶妙に描かれ、あらゆるオーラを場面場面で放出する、染み入る演奏でした。

2曲目、バルトークヴィオラ協奏曲。今回はシェルイ補筆版。こちらはオケはやや抑制ぎみ。
僕はヴィオラという楽器が弦楽器で一番好きです。バルトークヴィオラ協奏曲を、またショスタコーヴィチヴィオラソナタを最晩年に書いたように、僕はヴィオラの独特の音色から「生と死の狭間」を感じます。バルトークのこの曲は、彼特有の民族的リズムと、アメリカ移住以降の明解さの両方も感じますが、やはり晩年の濃密な世界が広まっています。うまく言葉にできないけれど。。。バルトークの作品としては、ピアノコンチェルトの3番とならんで好きな作品です。
今日の演奏は、カンブルランとメンケマイヤーの息が本当にピッタリ合っていて、緊張感の漂う名演でした。全体的に抑制ぎみの演奏ながら、随所でしっかりと聴かせ、全く飽きさせない。ほぼ完成形の1楽章に比べて劣ると評される2・3楽章も、全くそう感じさせない。
ヴィオラにしか表現できない、切々とした訴えかけに心を抉られます。

休憩を挟んで、アイヴズの「答えのない質問」と新世界。アイヴズは、実業家としての成功の傍ら優れた前衛音楽を書いた人です。この作品は、弦楽器の静謐な響きが全曲を貫く中で、P席中央に立って時折不穏な音型を奏でるトランペットや、不協和音の喧騒を奏でる木管群などが、その空気を乱し、しかし最後はやはり弦楽器の静寂だけが残る、という6分ほどのもの。現代音楽の時代というのは、あらゆる語法の音楽が同時期に複数存在(調性、無調、十二音、などなど)するという点で稀有な時代であり、アイヴズはこの曲で、様々な音楽語法を提示し、疑問を投げ掛けます。しかし、それらはどれも冒頭から続く弦楽器に飲み込まれ、また新たな語法を問いかけ、また飲み込まれ、、、その繰り返し。最後に残るのは弦の静寂。現代音楽はこれでよいのか、こんな特殊な実験的語法の繰り返しでよいのか?そんな問いを様々なたてても、そこに答えはない。

これが「答えのない質問」なわけですが、そこにカンブルラン&読響は、一つの答え?を示して見せます。それが、弦楽器の静寂から繋がれる新世界交響曲。今日のプログラミングを、僕はそう勝手に解釈しました。

新世界冒頭からかなりの快速。最初、アイヴズの響きの延長のまま始める上に速いテンポなため、呆気にとられてしまいました。随分煽るなあ、と思いましたが、そこは名匠カンブルラン。ただただ快速テンポで煽り立てるだけではありません。アゴーギクを駆使し、様々に聴かせてくれます。読響の重厚な、それでいて決して凝り固まっていない見通しの良いサウンドが、カンブルランのタクトによって最大限に活かされました。
2楽章の美しさ、そんなものは誰が演奏したって伝わるわけですが、今日の読響はそんな月並みなものではない。空間的に広がる演奏、といったら伝わるでしょうか。。イングリッシュホルンのソロは本当に美しかった!
3楽章も重厚なサウンドながら、決して重く落ちるものではなく、テンポは早め。正直、この楽章は「ダサい!!」って思ってしまうのですが、今日は全く感じなかった。
そして4楽章。この冒頭の安っぽさが苦手なのですが、今回は飽きなかった。重厚ながら、ドイツ的重苦しさのない独特のサウンドと快速テンポが、ぐいぐいと私たちを惹き付けます。圧倒的なフィナーレを築きながらも、決して暗くならない、透明感のある不思議な響き。

そこにあるのは土俗的な響きではなく、僕はドヴォルザークコスモポリタンな一面を感じました。
一方、アンコールにスラブ舞曲が演奏されましたが、こちらは情感たっぷり、民族的な一面。ドヴォルザークはただの愛国楽派に留まらない真の巨匠であったのだと、ようやく気づくことができた。こんなに面白い新世界は初めてです。いままで、通俗名曲と軽視してきたのが悔やまれてならない!

冒頭にも書きましたが、4曲全体で一つの音楽物語を見たような気分です。武満、バルトーク、二人の近現代の巨人が用いる独特の手法。方や東洋的響きに影響を受けつつ、調性から離れながらも決して不協和に留まらない、独特のサウンドを編み出した武満。方や民族的リズムを駆使し、そこに独特の平易性も取り入れ、更に晩年の心情まで吐露したバルトーク
そのどちらも素晴らしい。しかし、、、その延長に答えはあるのか?飽くなき音楽手法の探求の先に、何が残るのだろうか?アイヴズは問いかけます。音楽とは何であるのか、どこに向かうのかと(本来の作曲年代はもちろん前後します)。
その問いの先にカンブルラン&読響が描くのは、新世界。それも、土俗的演奏ではなく、コスモポリタンな、世界共通語として存在する、そんな音楽。後世に残るのは、結局、誰もに伝わる音楽なのだと。
非常にメッセージ性の強いプログラミングだと私は(勝手に)感じました。少なくとも僕は深く考えさせられた。

最近、コンサートに行く度に、音楽の価値であるとか、アマチュアが音楽をやる意義であるとか、そんなものを考えさせられることが、しばしばあります。今日はまた新たな角度で考えさせられる、貴重な機会となりました。