幽玄の森

一般大に通うアマチュアテューバ吹きによる、コンサート感想中心のブログ。たまに聴き比べや音楽について思うことも。

アマオケも色々  4/19湯浅さん&新響

所属する大学オケのスプリングコンサートを終え、新歓ももうすぐ一区切りというところで、コンサートに出かけました。

交響楽団第239回定期演奏会東京芸術劇場

指揮:湯浅卓雄さん

ショスタコーヴィチ:祝典序曲

橋本國彦:交響曲第2番

ショスタコーヴィチ:交響曲第10番

 

国内有数のアマオケ、新響の演奏会。指揮は僕が好きな指揮者の一人、湯浅さんです。まず、このプログラミング。ショスタコの10番は難易度が高く、アマオケの選曲では忌避されがち。そして橋本の2番。この曲の実演機会はまずないし、しかも指揮するのは同曲の蘇演録音を行った湯浅さん。これに心惹かれて行った演奏会です。新響を聴くのは前回に続けてこれが2回目。

 

1曲目、祝典序曲。ショスタコーヴィチ特有の悲嘆的な三拍子が弦楽器によって手堅く響き、木管群のソロ・ソリはほぼ完ぺきに纏め上げられ、金管はここぞという時に剛毅に鳴らす。この曲においてほかに何を求めるでしょうか。エキストラの方も多いはずのバンダまで、オケ全体のアンサンブルが整っていて感嘆しました。

 

続いて橋本の2番。まず一般にあまり知られないこの曲について。橋本國彦は主に千前期に活躍した作曲家で、欧州において新ウィーン楽派や近代フランスなど当時最先端の作曲技法を吸収して、平易なメロディーや和声とモダニズムの折衷を試みた人物。その一方で日本歌謡なども作曲し、また現在の芸大音校で後進を育てるなど、幅広い分野で活躍した日本近代音楽の父ともいえる人です。しかし、戦前に国威発揚的な作曲(交響曲第1番など)を行ったために、戦後は芸大から退任を余儀なくされ、不遇な晩年を過ごして1949年に44歳で世を去りました。

交響曲第2番は、戦後、新憲法発布の日の式典用に書かれた曲。この時の初演はラジオでも放送されたとか。しかし、初演後は、2011年にナクソスからCDが発売されるまでの間しばらく日の目を見ることはありませんでした。2楽章形式のこの交響曲において、祝典的雰囲気を持つ平易なメロディや明るい色彩感を伴った管弦楽法は橋本の得意とするところで、この曲にもその才は感じられますが…。しかし、どこか暗く、内向的。分かりやすい主題が冒頭から提示され、展開していくにもかかわらず、どこか盛り上がりきらない。戦前の橋本の作品、交響曲第1番などと比べると、その色調の差は明らか。戦後の橋本の複雑な心境を吐露しているのかもしれません。戦前の当局に迎合した(本心かは分からない)作品群ゆえに戦後はその職を失い、しかも新憲法発布に際して今度はまた戦後体制の賞揚のために作曲を求められる。平和を願い、また祝賀もしていたかもしれないが、しかしただ素直に祝うこともできない。

今日の演奏は、この曲そのものを忠実に表現しようとする名演でした。1楽章では厚いヴィオラ・チェロや木管群によって、主題の展開が丁寧になされ、橋本特有の変奏曲形式による2楽章では各変奏が分かりやすく奏でられ、曲の魅力が十分に伝わりました。2楽章最後のハープや鐘が入ってから終結に向けては、適度に抑制された演奏ゆえに感動的。

 

後半のショスタコ10番。戦前戦後と時代に翻弄された橋本同様、ショスタコーヴィチもまた当局との関係などに制約された作曲家であったのはよく知られるところ。『ショスタコーヴィチの証言』が偽書か否かはともかく、体制側、とりわけスターリンへの抵抗的作曲によって何度も処分や批判の憂き目に合ってきた彼が、スターリンの死後ようやくある程度の作曲自由を手にし、おもいのままに表現したのがこの10番。曲は暗く、攻撃的であり、しかしどこか輝かしさも伴う気がします。

1楽章、祝典序曲にも見られたショスタコ特有の三拍子による陰影描写。弦楽器によってその微妙な色合いが繊細に表演されていました。特に中低弦の厚みと安定感が素晴らしい。2楽章は、ドゥダメルのような「煽り立てる熱い」演奏などではなく、手堅く、楽曲を忠実に演奏しようとするもの。大変好感を持ちました。3楽章では独特の暗い舞曲が丁寧に奏され、強弱やアクセントの微妙な違いなど、彫りの深い表現が印象的。DSCH音型がはっきりと聴き取れます。そして4楽章。3楽章同様の陰鬱なandante序奏とクラリネットのファンファーレに導かれるallegroとの対比がはっきりと描き出され、充実した演奏。木管を中心とした各ソロや打楽器群の上手さが光ります。

橋本とショスタコーヴィチ。国も時代も違いながら、ともに政治的影響を受けて時代に翻弄されたという点で、共通点があるように思われるこの2人の作曲家を並べるプログラミングの妙を感じました。新響の演奏はどの曲も、純音楽的に楽譜に忠実に演奏しようとするもののように感じられ、それゆえに逆に曲の持つメッセージ性が伝わってくるものでした。

 

以下は演奏会の感想というより、自分の雑感。

2回続けてこのオケを聴いて、人の好みはあろうと思いますが、少なくともトップレベルの演奏力を持つアマオケには違いないと思います。プログラムや指揮者、運営形態まで、多くの点でアマオケらしからぬ点の多いこのオケ。どこか格調高すぎるきらいもありますが、これも一つのアマオケとしての到達点なんでしょう。

今や都内には何百ものアマオケが並び立つ。その中にあって、団の規模を維持・発展させ、聴衆の方々にも支持して頂き、また自分たちにとっても達成感のある活動を続けること。これはとても困難なことになりつつあると思います。新響のような志向もあり、あるいは特定のジャンルに特化したオケもあり。それぞれが存在意義、ポリシーを持っていれば、そのオケはきっとこれからも活発な活動を続けていくことでしょう。

では自分たちのオケがそのように活発に活動を続けるためには何ができるか。大学の団体であるという特性上、特定の志向を持つことはまずないでしょうが、それは一方で「寛容性」「多様性」を持てるということでもある。いろんな背景を持った同世代が一つの場に集まることで、あらゆる刺激を受けることができる。その結果できあがるものは、志向が定まった団体とは異なって、最初は全く見えない。だからこそ面白い…。

こんなことを考えながら帰路につきました。

 

とても充実した演奏で素晴らしかったものの、演奏中アクシデントが2つ。1つ目は橋本の1楽章と2楽章の間で、1階席の方のスマホ防犯ブザーアプリが鳴り出し、その方が退出されるまで2楽章の演奏を待つことに。楽章間であったのが幸いでしたが・・・。2つ目はショスタコ10番2楽章の直後にお一方だけ「ブラボー」の声が。気持ちはわかりますが…。

そのほかも客席での動きが気になってしまう場面が多くありましたが、しかしこんなことをきつく言うと客層が限られてしまいますから難しいですね…。

 

他のオケを聴きに行くたびに何か考えさせられてますが、考えすぎ、という自覚はあります…。