幽玄の森

一般大に通うアマチュアテューバ吹きによる、コンサート感想中心のブログ。たまに聴き比べや音楽について思うことも。

夕暮れ時の儚き夢の移ろい 16/1/24 湯浅さん&新響 芥川、エルガー

今年のコンサート初めはこちら。

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交響楽団第232回演奏会
湯浅卓雄さん指揮
芥川也寸志:交響曲第1番
エルガー:交響曲第2番変ホ長調
@東京芸術劇場

新響を聴くのはこれで4回目。湯浅さんの指揮で聴くのは2回目で、前回この組み合わせで聞いた橋本國彦の交響曲第2番が素晴らしかったので、芥川への期待も高まります。ナクソスの日本作曲家撰集もたくさんの素晴らしい演奏を聞かせ、僕を邦人作曲家好きにした湯浅さん。

そして後半はエルガーの2番……。(ベートーヴェンエロイカと並んで)この世で最も好きな交響曲……!この曲は実演の機会があまりなく、またごく稀にあっても自分の都合がどうしてもつかず、この日が初めての実演体験となりました。

最も好きな交響曲といっても、エロイカエルガー2番では位置付けが大きく異なります。頻繁に演奏されるエロイカは僕にとって身近にある愛するもの。それに対してエルガーの2番は、普段は触れる機会がなく、何か特別なもの。
エルガーを聴くと懐かしい気持ちになる、なんて言ったら「懐かしむほどの長い時間をまだ生きていないだろう」と言われてしまいそうですが、でもまさにそうなんです。特に何か鮮明な思い出を懐かしむのではなくて、なんとなく自分の家に帰ってきたような、ぼんやりと懐かしい気持ち。それがエルガーを聴くときの感覚です。
エルガーの2番はちょうど、夕暮れ時に似合う曲。変ホ音の伸ばしによる短い導入から、落日の輝きといった趣を醸し出します。
出てきた楽想が現れては消え、現れては消え、目まぐるしく変化していきながらも、それが忙しない印象を与えず、むしろゆったりと1つの流れに乗っているような不思議な感覚。これはエルガーの他の曲にも共通するところだと思うのですが、それが2番は特に顕著です。次から次へと紡ぎ出される、あるときは穏やかな、あるときは少し攻撃的な、またあるときは哀しみを帯びた楽想があまり鮮明ではなくぼんやりと移ろう様は、夢でもみているよう。心地よい夢というのはただ楽しいだけではなく、ふと何か懐かしい思い出が浮かんだり、心のなかにある楽しみや喜びだけでなく哀しみや怒りまでもが浮かび上がってくるもの。エルガー2番という曲の情景はそれに近いのです。
特に何かあったわけでもないが何となく明るい気分の秋のある日、夕暮れ前に、洗練された白ワインに酔って気づけば寝入っていたときに見た、心地よい夢。儚く移ろう様々な夢の中の情景を通して、自分の中にある様々な感情を浮かび上がらせながらも、それを心地よく思う一時。哀しみを覚えながらも、それがどこか心地よく感じている。……それがエルガー交響曲第2番に抱く僕のイメージです。

そんな特別な曲をやっと聴ける機会がやってきた。その喜びは尋常なものではありません。曲目にこんなに心踊らされたのは、昨年の尾高さん指揮読響のエルガー3番以来でしょうか。しかもこの日の指揮は、英国で活躍され、ナクソスから膨大な数の録音(どれもが素晴らしい名盤!)を出されている湯浅さん。俄然、期待は高まります。

大きな期待を抱いて聴く本番、冒頭の一音からぐっと引き込まれる演奏でした。
1楽章はインテンポであっさりと進めていく演奏で、あまり強い情感などを訴えてくることはなかったのですが、それがかえってこの曲の表情を描き出していると感じました。明るめの第1主題と静寂の第2主題が複雑に交錯するこの楽章ですが、その繋ぎめで変にためてしまうと、それがかえって違和感を与えてしまう。ところがだからといって無理に押し込んでいけば楽想の変化を感じさせられなくなる。今日の演奏はそのどちらにも寄ってしまうことなく、見事でした。この楽章のホルンとテューバはすさまじく難しいのですが、どちらもピッタリとはまっていて素晴らしかったです。

第2楽章ラルゲットも早め。といっても、この楽章はアダージョではないので、これが正しいのでしょう。緩徐楽章ながら、金管の咆哮あり、低音の威圧ありのこの楽章。咽び泣くような唸り声は、よく「(完成前年に亡くなり、公式には献呈先とされた)国王エドワード7世への哀悼」だとされますが、僕はもっと私的なものだと思っています。この曲はそんなに公の曲じゃない。友人の指揮者に対する哀悼という説の方が説得力ありますし、もしかしたら亡くなった誰かというよりはもっと小さな、自分自身の悲しい出来事なのかもしれません。そんな「私的」なこの楽章は、情感たっぷりに歌い上げるというよりは、自分のなかでひっそりと哀しみを噛み締めるタイプの演奏で聴く方が説得力あります。今日の演奏はまさにそんな趣あり。主題と対になって奏されるオーボエのソロが大変素晴らしかったです。

3楽章ロンドは中庸のほどよいテンポ。といってもこの楽章とんでもなく難しい。これ以上早いのは無理でしょう。ロンドといっても、実態はコーダ付スケルツォブルックナースケルツォにどことなく似た楽章です。この難しい楽章も、勢いに任せることなく微妙な陰影を描き出すのには、さすが新響様恐れ入りましたといったところ。2連符系と3連符系が同時並行的に出てくるのでこれは本当に難しいでしょうね……。

終楽章は冒頭の弦による導入から美しい。切々とした旋律ながら淡々と歩みを進めていくこの楽章。今日の演奏は1,2楽章で予想されたほど早くはなく、踏みしめていくような感じ。ほとんど同じ楽想をずっと使い続けるのに微妙な表情変化に富むこの楽章を、自在に変化をつけながらも流れを失わせない捌きかたは本当に素晴らしかったです。消え入るような終始へと至る緊張感には思わず息を飲みました。

知り合いのいないアマオケの演奏会で初めて泣きました。1楽章からずっと泣きっぱなしでした。やっと初めてこの曲の実演に触れられたというだけでもう感動していた上に、演奏が素晴らしかったので。同時に、前述した、夢見心地の中で僕のなかに様々な感情が浮かび上がって、感傷に浸っておりました。でもその感情が、決して苦しいものではない。むしろそれが心地よいんです。やはりエルガー作品を聴くときの気持ちというのは不思議です。


後半のエルガーへの思い入れが強すぎたゆえに、前半の印象は正直薄れてしまいました。でももちろんとても良い演奏だったのは覚えています。新響の創設者、芥川さんへの敬愛に溢れた真摯な演奏。でも、プログラム中にもあったように、僕を含め芥川さんの生前を知らない世代の増えた今、より純粋な思いでこの曲を演奏してみようという姿勢もまた感じられました。邦人作曲家も好きな僕としてはもちろん前半もとても楽しみだったのですが……、やはりエルガーを聴くと冷静さを失うので、ごめんなさい。休憩中に前半の感想を書き留めておくべきでした。


唯一今日残念だったのは、エルガーのあの消え入るような終始にステージも客席も張り詰めた空気で浸ろうとしていたときに、汚い声で「ブラボー」が飛び出し、すべてを壊されてしまったところ。この曲はそういうブラボーが許される曲じゃないでしょう。まだ指揮者のタクトは下りていなかったのに、仕方なく下ろしてしまったじゃないですか。だいたい、真面目にあの曲を聞いていたらブラボーなんて飛び出すはずがないんです。マーラー9番なんかもそうですが、しばらくの静寂をおいて、ゆっくりとささやかな拍手が出て来て、それがだんだん暖かい拍手となっていって、時間がたってから初めて「ブラボー」が飛ぶような。そんな空間であってほしかった……。あのフラブラおじさん、「俺はこんなにマイナーな曲でも終わりを知っているんだぜ」と誇示しに来たんですよね。はあ……。

美と束縛と葛藤 12/6 神奈川県民ホール 黛オペラ「金閣寺」

「この機会だけは絶対に逃すまい…!」と強い決意を持ってチケットを発売後すぐに確保したのがこちら。

12/6(日)
黛俊郎作曲(三島由紀夫原作)オペラ「金閣寺
指揮:下野竜也
演出:田尾下哲
溝口:宮本益光
父:黒田博
鶴川:与那城敬
柏木:鈴木准
管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団

@神奈川県民ホール

黛作品がとりわけすきなわけではないのですが、彼のオペラを見る機会はこれを逃せばあと何年待つことになるか……と考え、即決でした。学生券が安いのも大きな要因ですが。

1976年にベルリン・ドイツ・オペラで初演されたという作品。台本は三島本人に依頼したものの断られたため(その数ヵ月後にいわゆる三島事件で自決)、ドイツ人台本作家のヘンネベルクの手になるもの。
三幕構成ですが、今回の上演では2幕の途中で休憩。当初は全幕通しも検討したそうです。

演出家の田尾下さんをはじめ、演奏のみならず舞台製作への拘りが大変強い公演で(プログラムにその拘りの様子が描かれていた)、総合芸術としてのオペラの真価が大きく現れた公演でした。

さてこのオペラは大変暗い、暗い。。。右手に障害をもつ(原作は吃音)主人公溝口は寺の息子で金閣寺に修行に出されるが、障害ゆえの屈折した精神が大きく影をさす。母の不義、父の病死、戦争、友人の自殺、破門の示唆、様々な要素が彼のその性質をより強くしていく。そんななかで彼は次第に金閣に惹かれ、やがて束縛されていくことに気付いた彼は、金閣が戦争で破壊されその束縛から解放されることを臨むが、金閣は戦災に巻き込まれず残る。そして全ての希望を失った彼は遂に、金閣を自らの手で燃やすことを決意する。

三島原作ながら、その原作以上に暗さが際立つこの作品。見ていてトラウマになりそうなものでした。黛の音楽だから分かってはいたけど、あまりにも暗い、全身のエネルギーが全て吸い取られるような……三島の原作読んでもこんな感情にはならないのに…。あまりにもショッキングな公演でした。 あらゆる登場人物、舞台上にまばゆく輝く金閣までもが、聞き手のなかで次第に恐怖の対象となっていく…… 終えて心に残されるのはあらゆる芸術、音楽や美術や文学…への恐怖。これは大変な傑作、というか問題作ですね。

黛の音楽というのは、いつも人々の不安を煽り立てる傾向にありますが、その世界に長い時間触れていると、その中に、人間的な感情の起伏などが細かく感じられるようになってきます。また、動機の一つ一つは、日本的な、たとえば能や雅楽に見られるような音列と密接に関わっています。

指揮の下野さんが「黛の音楽は暗いだけでなくエロスなどが……」とおっしゃっていて、また田尾下さんの意向で普段はカットされる「京の夜」の場面が復活させられたのですが、この場面では京の女性たちが無言で(黛らしい不気味な音楽のもとで)舞いながら溝口に迫ります。その音楽の不気味さが、かえって聴衆を美に見入らせます。時折、同じリズムが場面を違えても続き、トランス状態に陥るような感覚を与えます。溝口をはじめとする登場人物の狂気を聴衆に植え付けるかのよう。
舞台上には常に巨大な金閣が聳えていて、その前に様々な舞台が競りだして場面展開が行われるその演出をずっと見ていると、溝口を通して我々も次第に金閣に縛られていくようになります。

歌手は溝口役の宮本益光さん(前日は小森輝彦さん)はじめ、若手実力派中心。演出家田尾下さん、指揮下野さん含め、日本の若い力が集った公演。
下野さんは黛の音楽を知り尽くしており、ともすると「ただ不気味なもの連続」になってしまうこの音楽の微妙な表情変化を克明に描き出します。それゆえに聴衆は音楽に魅せられる。決してオケが変に目立つこともなく、ぴったり伴奏として、歌手や、あるいは舞台上の無言の動きにすらつけていく。匠の技です。
下野さん指揮する黛作品を聴くのはこれが三度目ですが、やっと黛がわかってきたかもしれません。日本的な美が追求されている音楽だと感じます。

歌手も宮本さんはじめ素晴らしい……。調性から逸脱した歌のみならず、時に音程のないレチタティーボを音楽的に「唄う」ことが要求されるこの作品は困難に違いありません。しかしそんな困難さを全く感じませんでした。それだけでなく、どの歌手も舞台演技をしっかりと演じきっている。歌ばかりが重視されて演出が軽視されることも少なくないオペラ界において、これほどきっちり演じるのは珍しいのではないでしょうか。でもこの作品には重要な要素なんだと感じました。これは「能」に近い世界かもしれない。

終演後、音楽自体への一種のトラウマのようなものを植え付けられ、どっしりと思い気分になってしまいました。でも貴重な機会で行ってよかった。頻繁に見たい作品ではないけれど、もっと評価されてしかるべき作品だと思いますし、あと20年ぐらいたったらまた見たいと思いました。

ウィーンの風 ゲッツェル&神奈川フィル ブラームス、コルンゴルト

久々のblog更新ですが今晩はこんな演奏会に行って来ました。

指揮:サッシャ・ゲッツェ
ピアノ:ゲアハルト・オピッツ
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
@ミューザ川崎シンフォニーホール
ブラームス:ピアノ協奏曲第2番
コルンゴルト:シンフォニエッタ


定期会員券を持っている日フィルを除いて、プロオケの演奏会チケットを単発で買うのはかなり久しぶり。食指を動かす大きな動機となったのは、昨今流行っている(?)コルンゴルトを聴いてみたいがCDをあまり見かけないということ。また、1月に同じゲッツェル指揮神奈川フィルで聴いたベートーヴェンエロイカが大変面白く、このコンビをまた聴きたいとずっと思っておりました。年始と年末(というには早いか……)にこのコンビを聴けるというのも大変良い。神奈川フィルさん大好きなオケの1つなんですが、横浜まで遠征するのは少し大変な上に、土曜公演が多いためなかなか聴けずにいたところ、珍しくミューザでの公演ということで飛び付いたわけです。生演奏が貴重な名曲は極力聴かねば、と。

前半はブラームスのP協2番。ソリストに巨匠オピッツ登場。当然このオピッツのソロに期待してきたわけですが、この演奏ではピアノは勿論のことながら、オケがとてもよかったです。オケの役割が大きくシンフォニックなこの曲は、オケが控え目な伴奏に徹すると、つまらないなあ……となりがちです(僕だけかもしれませんが)。ゲッツェル&神奈川フィルは、巨匠ソリスト相手に臆さずがっつり横綱相撲を組みます。緩急自在のアゴーギクや幅広いデュナーミク、そして弦楽器中心の楽器を越えた溶け合い。オケだけで大満足な演奏とともに、滋味深いオピッツのソロが優雅に鳴る。なんて幸福な時間でしょうか。第二楽章スケルツォは熱く燃えさかり、第三楽章のピアノソロ弱奏部なんか、ホール全体が静まり返り、息をのみます。
またこのホールでコンチェルトを聴くのは大変良いものです。ミューザの室内楽的響きが生きて、ピアノとオケとの絡み合いが心地よく響きます。
ゲッツェルの指揮は北ドイツ系の硬派な演奏ではなく、ウィーン系の、柔軟で変化に富んだもの。こういうブラームスが聴きたかったので感激……。前にエロイカを聴いたときも、アゴーギクを駆使した演奏はとても面白かった。オケでは山本さんの第三楽章チェロソロと、ホルンが特に印象に残りました。

後半は待ちに待ったコルンゴルトシンフォニエッタ
曲冒頭から凝集度の高いオケの美音がミューザを満たし、一瞬にして魅了されました…。リヒャルト・シュトラウス的な管弦楽法(特に楽器の重ね方)ながら、単に壮麗なだけでなく、様々な表情を見せるこの曲。コルンゴルトを愛してやまぬというゲッツェルは曲の表情を絶妙に描き分けます。こんなに色々な音の絵を見せられ、愉しいことこの上ない……。
時にオケを煽り立て、時に優しく響かせ…、この興奮はライヴでしか味わえません…。
コルンゴルトは19世紀後半から20世紀前半のウィーン気質を感じさせつつ、所々印象派のような和音とか、その後の映画音楽を思わせる金管打楽器とか、これからもっと色々聴き込もうと思いました。 こりゃコルンゴルトファンが一定数居るのも頷けますな。
シンフォニエッタ、日本語で言うなら「小交響曲」とでも言うべき曲名でありながら、実際には3管編成でハープ2台やピアノ、チェンバロを伴うこの曲。ゲッツェルは「ウィーン風のユーモア」と説明したそうですが、そういえばヤナーチェクシンフォニエッタもどでかい編成で演奏時間も短くないですよね。オーストリア帝国ではそんな表現が流行っていたんでしょうか。


知名度の低い曲であるにも関わらず、客席は大興奮でして、こんなに盛り上がるコンサートは海外オケの来日公演でもそうそうないんじゃないかというぐらいです(今年の某一流オケ来日より盛り上がったのでは…)。アンコールに「雷鳴と稲妻」を演奏してオケをめちゃくちゃ煽り立て、指揮者は思い切り跳び跳ねて…… こんな楽しいコンサートいつ以来だろう……。
僕は基本的に、古典から現代まで時代の枠を飛び越えた「プログラムの妙」を味わえるコンサートが好きでして、ノット&東響やカンブルラン&読響などがたまらないと思うタイプの人間です。が、こういうコンサートも時には聴きたいわけです。ゲッツェル&神奈川フィルはそういう欲を十二分に満たしてくれるので大好きなコンビです。

付け加えておきますが、ただ単に愉しいだけの演奏会ではなかったです。ブラームスのピアノコンチェルト2番とコルンゴルトに共通するのはひょっとすると「調性からの逸脱」なんじゃないかと個人的に思いました。コルンゴルトは言うまでもなく、ブラームスのこの曲も、4楽章など、正確に分析すれば調性はあるけれど、一瞬感覚的に調がわからなくなるような瞬間が多々あります。モーツァルト以来、ウィーンで活躍した人には多くみられるのかもしれない。知識不足なのでよくわからんですが……。

次に聴きに行くのは12/6(日)、偶然にもオケは同じく神奈川フィル。神奈川県民ホールにて下野さんの指揮で黛のオペラ「金閣寺」です。

「お国もの」演奏について考える

先日、東欧の某小国の国名を冠したフィルハーモニー管弦楽団の演奏に触れる機会がありました。某国というのは、ドヴォルザークの故地に程近く、1990年代まで隣国と一体であった国です。演奏に"触れる"というのは、客席で聴いたわけではなく、また「演奏を聴いていた」等と公言できる立場にもないので、どうかお察し下さい……。

さて、その某オケについて、私はあまり詳しくは知らなかったのですが、いくらかのドヴォルザーク録音などを耳にしたことはあり、「なんとなく来日招聘されてはいるけど、そんなにすごいオケではないだろう」等と高をくくっていました。一介の実力もないアマチュア奏者にして不遜だと言われるでしょうが、しかしコアな音楽ファンでも、同じ額を払うならより有名なオケ、あるいは自国のオケにというのが自然の心理というもの。演奏するのはドヴォルザークなのですが、「それならチェコフィルでいいじゃないか」等とさも分かったかのようなことを平然と言いかけもしました。

では実際に耳にしてどう感じたか。これが意外と、いや大変に素晴らしい演奏なのです。アンサンブルや弦楽器の音色など、もっと上手いオケは日本国内含めていくらでもあるだろうけれど、そういった技術的問題など全くどうでも良くなるほど説得力のある"何か"を、そのオーケストラは持っていた。演奏したのは1つ1つのフレーズに強い思い入れを感じさせる歌い込み方、ここぞというときの咆哮、トゥッティの強奏が終わった直後のはっとするような温かい静寂。
これが「お国もの」(厳密には隣国だが…)を演奏するということなのか、と素人耳ながらはっと気づかされ、また何か普段のコンサートであまり感じない温かい気持ちを抱きました。
「お国もの」否定派の方からは一人のみの感想だろうと言われてしまいそうなので触れておくと、客席の反応も大変温かなものでした。ホール内を見る限りどちらかといえばコンサートに不慣れな方が多いように見えたとはいえ、そういった方も、足しげく演奏会に通う知人数名に訊いた反応も、大変良いものでした。アンコールのスラヴ舞曲15番が終わると会場内にはスタンディングオベーションも見えました(なお余談ながら、ここで"不慣れな方が多い"という文字列を見て「耳が肥えていないからだ」などと言い放たれる方は結構、お高い"一流"コンサートだけ厳選して行かれたほうが本人にとっても周りにとってもお互いに幸せなので。)


近年こんな声を耳にすることがよくあります。曰く、「チェコの指揮者やオケにスメタナドヴォルザークばかりを、フィンランドのオケや指揮者にシベリウスばかりを演奏させる安直なプログラムはもうやめろ」と。確かにこれは一理あって、例えばチェコフィル常任のビエロフラーヴェクによるブラームスサロネンによるマーラーなど、お国ものに限らず良い演奏は山のようにあるのはもちろん事実です。さらに、それにも関わらずビエロフラーヴェクは来日すればドヴォルザークを多く振り、サロネンは来日すればシベリウスを多く振っているのもまた事実。これは確かに勿体ない。
しかし、こうした事実をもってして「国名を宣伝に使った商業主義」などと非難するのは当たらないでしょう。「お国もの」演奏がしつこいほどに行われるのはなぜかと問えば、それに意味があると多くの人が感じるからなのです。私は先日の某オーケストラでそれを強く感じました。

もっとも、ドヴォルザークという作曲家はチェコ民族主義者というよりはむしろオーストリア・ハンガリー帝国において偏狭な民族主義を超越しようとしたコスモポリタンとしての一面もあるから、ドヴォルザークをこうした論拠とすることに違和感を持つ人もいるでしょう。また、「お国もの演奏の意味」という問いをより敷衍すると、「そもそも民族アイデンティティなど幻想に過ぎない」などといったポストモダンの"先進的"意見や、「音楽は民族の枠組みを超えて人々に届くからこそ良いのだ」という批判もあるかもしれません。
だが少なくとも、一人一人の作曲家は、生身の人間として?その祖国に生き祖国の空気を吸っていたわけであり、同じ空気感を知る人というのは外の人にはない特有の強みなのだと思います。現代の日本でも、たとえば日フィル首席指揮者のラザレフ指揮するショスタコーヴィチが、当時の空気までも感じさせる演奏であるのを体感して頂ければ、少しくこの点を理解頂けるのではないでしょうか。
「空気感の共有」に加えて、「言語の共有」という要因も忘れてはなりません。バルトークのヴァイオリンコンチェルト1番を演奏するルーマニア人ヴァイオリニスト(ご芳名は失念……。)がこんなことを言っていたのをよく覚えています。「バルトークの音楽は非常に難解だが、その一見複雑な変拍子ルーマニアの言語感覚に近く、私たちはこの作曲家と同様に呼吸し、一体となって演奏できるのです。」なるほど、武満徹の音楽に触れたときに(邦楽器のみによるわけでもなく)何となく感じる日本の息吹もこれに近いのかもしれません。


念のために付け加えておくと、もちろん私は「お国もの」意外の演奏の価値を否定するものではありません。私自身、在京オケをはじめ日本国内のオーケストラは年中聴きに行くし、それに海外オケと同等あるいはそれ以上の感銘を受けることも多いです。しかし、本場ものには本場ものならではの良さがあるのだという点は強調してもしすぎることはないように思うし、また、逆に「本場もの」の価値があるからこそ、本国人ではない者による演奏にも別個の固有価値が生まれるように思います。

実を言うと、私自身、大好きなビエロフラーヴェク&チェコフィルの来日プログラムに「わが祖国」「新世界」が並んでいるのを見て辟易していたタイプでしたし、今でもそういったプログラミングがいささか安直すぎるのではないかという感覚はあります。でも、考えてみれば古くはアンセルメラヴェルやライナーのバルトークなど、新しくはインキネンのシベリウスやインバルのマーラーなど、母国を同じくする演奏家に優れた演奏が多いことにはすぐに気づかされますし、こういったプログラミングは単に客引きというわけではなく、やはりそれなりに意味があるのだと、今改めて思い直しているところです。

ちなみに、ここからさらに脱線して「オケで重要なのは技術なのか?」や「逆にお国ものではない演奏に固有の価値とはなにか」、「演奏会により多くの方に足をお運び頂くために取り払わねばならない垣根」などまで書こうとしてましたが、どうにも冷静な判断力を失っているような気がするのでここまで。

一気呵成 15/6/29 カエターニ&都響

前日に自分が出演する演奏会があり、まだ疲れは抜けきっていないなかながら、6/29(月)はこちらの演奏会へ。

東京都交響楽団第791回定期演奏会Aシリーズ
@東京文化会館
指揮 オレグ・カエターニ
ブリテン:ロシアの葬送
タンスマン:フレスコバルディの主題による変奏曲
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」

実はこれが人生初の東京文化会館都響A定期はこれまで日程が合わず、なかなか来れませんでしたがようやく来れました。
到着が遅れ、1曲目のブリテン作品(金管・打楽器合奏)は聴き逃す羽目に…。良い演奏だったと色んな方がおっしゃってたので、金管奏者としてはこの上ない痛恨。無念。
2曲目のタンスマンは弦楽合奏作品。初めて聴く作品でしたが、とても魅力的でした。バロック期の作曲家フレスコバルディの作品から主題をほぼそのままとり、6つの変奏と壮麗なフーガ、そして最後に主題をもう一度静かに奏でて曲を閉じるというもの。主題のみならず変奏など書法もおおむね前近代的でしたが、その洗練ぶりは他にはない魅力的なもの。この日の演奏で際立ったのは都響弦セクションの優れたアンサンブルとバランス感覚で、弦楽合奏がこれほど表情豊かに聴こえるものかと驚きました。フーガのあと、主題によって静かに閉じるフィナーレは美しい響きがとても心に染み入りました。

休憩を挟んで後半、ショスタコ11番。この曲は大好きで、実演を聴くのは去年の森口さん指揮ダヴァーイ、今年3月のラザレフ指揮日フィルに続いて3度目。日本のオケによる演奏だけでも、他にTVで観たデュトワ指揮N響や、CDを所有している北原さん指揮N響も印象にあります。

この日の演奏はまず冒頭からそのテンポ設定に驚嘆。とんでもない快速演奏です。しかも、1〜4楽章全部アタッカ…(!)ちょっと息をつく間がなく大変でしたが、
1楽章はそのテンポも相まって全体を通してとても冷たい印象を与える演奏で、革命前ロシアの冷たく長い冬を想像させられました。トランペットの奏でる動機が、冒頭から楽章終結まで同じ音量・フレージングで貫かれていて、それがこの楽章に統一感をもたらします。打楽器や弦楽器の冷静な伴奏音型も特筆もの。

アタッカで入った2楽章、こちらも早めのテンポで演奏されますが、一糸乱れぬアンサンブル!バランスも優れており、この楽章のグロテスクさが際立ちます。いわゆる「血の日曜日」の場面に入ると、スネアドラムに導かれる弦楽器が超速ゴリゴリ演奏。恐怖が一気に高まります。金管も加わって凄まじい轟音をホール中に轟かせたところでバスドラ・ドラも加わって虐殺の場面へ。ここで急にクライマックスを築く演奏が世に多いなか、カエターニ&都響の演奏はテンポもテンションもデュナーミクもほとんど変わらない。そこまで超速できていたので、これは予想をきれいに裏切られてしまいました。と言ってももちろん音圧は充分なもので、これもありだなと。そのあとの静かな祷りに感じられる深い呼吸感との対比は劇的なもの。この流れのままアタッカで3楽章へ。

3楽章も割合早めで、全体的に淡泊な印象を受けました。冒頭の低弦のピチカートから、冷たく重苦しい空気にホールが支配される……というところでアクシデント。1階Rサイド後方あたりから、木に鈍器を叩きつけたかのような音が鳴り響き、これが静かな3楽章冒頭では大変目立ってしまう……。しかしながら、そんなことで集中できなくなってしまうような演奏ではなく、ホール全体がオケの作り出す悲しく重い響きに引き込まれます。ヴィオラの奏でる悲嘆的動機は非常に暗く、これほどまでに息苦しい演奏は今まで聴いたことありません。これに2ndVnなど加わって息苦しさは増幅し、それに続く金管低音とバスクラはまるで地獄からの悲痛な叫びのようにこだまする……。
ただし、3楽章後半に入っていくと次第に音量とともにオケ全体のエネルギー感が増していき、まだ救いようのある程度の暗さへと変貌していった気がします。どこか流麗さ(言葉がおかしいが…)がある音楽の作りは、悲痛のどん底のような暗さを保ちつつも、一方でリヒャルト・シュトラウス交響詩かのような印象すら与える不思議なもの。ある種の若干の希望か、これからに続く嵐の前兆なのか……。

まさかのアタッカで終楽章、これも早め。とはいえ他の3つの楽章に比べればまだ普通のテンポだったでしょうか。冒頭の弦のデュナーミクの差は大きくとられたものの、破綻しない節度ある金管群が重くも推進力を失わず曲を前に進めます。一方で「ワルシャワ労働歌」が比較的落ち着いたテンポで進んだのが印象的。この労働歌は労働者の掛け声や歌というよりも、悲痛を訴えるかような、そんな印象…。非常に息苦しい。
攻撃的ながらも随所に若干の希望の光も示しながら進むこの曲が打楽器によって打ち砕かれ、1楽章チェンバロの祈りが回帰する場面、ここでまた独特のグロテスクな表現が冴えます。
終結部、低音木管は大変冴えており、また弦のアンサンブルも大変優れたもの。ここも「踏みしめるよう」な演奏とは対称的な、快速かつ冷たい音楽作り。金管の咆哮は盛大になるけれど、それすらどこか冷徹に眺めてしまうようなサウンド。なんという救いのない……。もっと力一杯、重戦車に踏み倒されるような演奏の方がまだ救いがあって、これはまるで生殺しのような……。最後の鐘はとても良かったのですが、1枚叩いたら飛びかけた鐘があって、このため少々ずれてしまって1つ音がオケ全体よりも後に残るという悲劇が。
さて余韻がどうなることやらと思ったら、都響にしては珍しく(B定期で最近事件事故が多いので)、フライング一切なしの気持ちの良い拍手・ブラヴォー。それだけ聴衆が演奏に引き込まれていたということでしょう。

全曲を通して、1種の交響詩のような横の流れを築きつつ、都響特有の優れたアンサンブルを活かした冷徹なサウンド作りにより、大変グロテスクな演奏でした。指揮者のカエターニ、マルケヴィチの息子さんだそうですが、横の流れの作り方や、独特の冷静な表情付けは共通するものを感じました。

正直なところ、3月のラザレフ&日フィルのショスタコ11番を聴いて「これを超える演奏はないだろう」と思い、カエターニ&都響の11番は聴くのを控えようかとよっぽど悩んでいました。が、これは来た甲斐があった…!ラザレフの熱く深い演奏とは対照的な、冷たく息苦しい演奏。これはどちらも優れた演奏で、日本で年に2回も、全く異なる方向性のショスタコ11番が聴けるというのがいかに凄いことか。ホールいっぱいに響く轟音の凄さは、こういう曲は生で聴くべきだとの認識を強めてくれます。

また、今回初めて東京文化会館に来ましたが、ここも大変良いホールですね。直接音がそのまま飛んでくる。個人的には、都響で大編成の曲を聴くときには、サントリーホールよりも東京文化会館の3階や5階のサイドで聴いた方が、音が飽和せず良いのではないかと思いました。

ちなみに、会場ではカエターニ指揮のショスタコーヴィチ交響曲全集が特別価格3000円で販売されており、こちらは購入しました。ゆっくり聴きたいと思います。

英国音楽の真髄 5/22 尾高さん/新日フィル

今日も今日とてコンサートへ。行き過ぎと言われますが、どうしても行きたい!というプログラムが今月に集中しすぎているのです…

新日本フィルハーモニー交響楽団 第541回定期演奏会
@すみだトリフォニーホール
指揮:尾高忠明さん

ヴォーン・ウィリアムズ:タリスの主題による幻想曲
ディーリアス(ビーチャム編):楽園への道
ブリテン:歌劇「ピーター・グライムズ」より「4つの海の間奏曲」
エルガー:交響曲第1番

オール英国ものプログラム…!それも、指揮は日本における英国もの第一人者、尾高さん。去年読響で聴いたエルガーの3番もなかなかに感動的でした。エルガーの1番をBBCウェールズ・ナショナル響、札響と、エルガー3番を札響と録音していますが、いずれも所有していて、愛聴盤です。というわけで、本日の持ち物はこちら。
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僕は英国音楽が大好きでして、特にエルガーとRVWの作品に対する愛情では負けないと自負しています(何の自慢だよ…)。エルガーの1番は実演3度目、RVWの「タリスの主題」とディーリアス「楽園への道」は実演2度目。
また個人的には、2月の秋山さんと東響のエルガー1番他が楽しみにしていたものの急遽聴きに行けなくなってしまったので、ようやくエルガーを聴けると楽しみに向かいました。
会場に着くと、オケの同期、先輩など、知っている顔がちらほら。エルガーの1番もここ数年は演奏機会がプロアマ問わず格段に増え、ウォルトンやRVWまで演奏されるいい時代になりました(あとはエルガー2番さえ演奏されれば完璧なんだが…)。
本日の学生券は1階1列が中心で、僕の席は1列6番という下手側にかなりよったところ。いい席とは言わないでしょうが、弦の生音がよく聞こえてくるので嫌いじゃないです。

今日の布陣は、コンマスに崔文殊さん、そのサイドには西江辰郎さんがつくという重厚なもの。1曲目のRVWが弦トップとその他で別の動きをするよう書かれていることもあって、各パートサイドにトップ級の方が並びます。
尾高さんと新日フィルはなんと初共演とのことですが、全体を通して、そんなの信じられないくらいとても良いコンビだと感じました。また是非とも新日フィルを振って欲しいです。


1曲目、タリスの主題による幻想曲。この曲、ときどき聴きたくなるもので、本当に癒されます。
新日フィルの弦楽器ってこんなに綺麗だったっけ…? とりわけ、ヴィオラ首席の篠崎さんのソロが美しく、適度に陰影がこもったもので素晴らしかった…!崔さんのソロもよかったけれど、ちょっとこの曲にしては明るすぎかな…?尾高さんの指揮は感情のこもったものでした。

2曲目、ディーリアス「楽園への道」。弦楽器の細かい動きは少し走りぎみですが、やはり美しい。木管の響きはこのオケちょっと独特だと思うのですが、その音色がこの曲にはとてもよく合う。控え目な打楽器も曲の持ち味を引き出します。もっと大人しい印象のあったこの曲に、こんなに色々な色合いがあったとは。緩急自在に曲を作り上げる尾高さんに感嘆。

3曲目、ブリテン。一言で言うなら、スコアが目に見えるかのような透明感のある演奏。ブリテンオーケストレーションの巧みさを実感させる明晰な演奏でした。

エルガー1番。尾高さんの十八番中の十八番。期待に胸が高まります。
1楽章。ティンパニと低弦のAs音による導入の直後、フルート・クラリネットファゴットヴィオラによる主題の提示が大変美しい…!特にヴィオラは1曲目同様特筆もので、この曲に一気に引き込まれます。徐々にオーケストレーションが厚くなっていくなかで、とりわけ印象に残ったのは、低弦のフレーズの入り方・納め方。これがとても丁寧なもので、長い音の多い主題と4分音符が続く伴奏との対比が明晰なものでした。特にこの部分は、耳で何となく聴くだけでは3拍子に感じられるものですが、スコア上4拍子であり、それには意味があると思っています。そういう意味で、4拍子感をはっきり出していたこの日のフレーズ納め方はとてもいい。また、金管が加わって以降はテューバの響きが印象的で、比較的大きめの音でフレーズ感たっぷりに歌い込んでいました。
その後の複雑な展開部では、拍子の変化とともに歌い方を変化させるのが上手い…曲の構造がよくわかります。この曲の独特の拍子の書き方(4/4と3/2など)にはちゃんと意味があるはずで、特に3/2の所の攻撃性が描き出されていて良かった。エルガーというのは、ただ美しい旋律や堂々たる行進曲ばかり書いた人ではなく、どこか攻撃的な側面も持った人でした。それは貧しい境遇から国民的作曲家へと進む中で生まれた性質なのではないかと思うのですが、そういったエルガーという人の多面性がよく出た1楽章でした。終結部の方はややアンサンブルに乱れがありましたが…。

2楽章。この楽章の弦楽器は大変難しく、かっちりと噛み合った演奏は少ないように思います。が、この日の演奏は一糸乱れぬアンサンブルに感嘆…。この楽章のテューバが大変剛胆でびっくりしましたが、音が割れることはなく、決してうるさく感じません。
さて2楽章には数ヶ所、金管の駆け上がりがありますが、その際必ず最終音が木管か弦によってそのまま続けて伸ばされるというのがこの楽章の1つの特徴です。よくある演奏として、金管が爆音で投げ捨てるようにフレーズを終え、その直後と全く繋がらないというものなのですが、この日の演奏はとても丁寧に次へと受け渡し、最終音の伸ばしや次の動機によく繋がります。実はこれ、なかなかない。これほど流れのよい2楽章は久々に聴きました。やや打楽器が固かったかな…。

音楽は少しずつ純化され、3楽章へ。新日フィルの弦楽器(特に崔さんの時)は全体として明るい音色で、エルガーっぽくないと言えばその通りなのですが、しかし耳の良いオケですから、3楽章の透明感は素晴らしい。尾高さんは独特の溜めが数ヶ所ありましたが、それが決して違和感なく、またオケとのコミュニケーションも完璧でした。

4楽章。なんと2・3楽章に続けてアタッカで演奏(土曜に聴きにいく人は覚悟していてください)。聴衆もオケも疲れてしまいそうですが、そんなこと言えないほどホール全体が演奏に引き込まれていたので問題なし。この4楽章に関しては、尾高さんの録音2種ともやや雑に感じられていたのですが、この日は全くそう思いません。今までの尾高さんのエルガー中、4楽章は最良の演奏なのでは…?

全体を通して、とりわけ印象に残ったのはフレーズの納め方。1楽章の冒頭や2楽章の金管駆け上がり直後、3楽章などについて書いたように、曲が途切れることないように丁寧に各フレーズが閉じられていて、特に間近に見える弦楽器はこの点にこだわっているように見えました。
また、この曲にはヴァイオリンなどに"Last desk only"すなわち一番後ろのプルトのみという変わった指定があるのですが、今日の演奏では1stVnの最後列プルトが情感に溢れながらも節度を保った演奏で大変印象的でした。

この日のすみだトリフォニーは空席が目だって少し残念でしたが、聴衆のマナーが大変よく、そのため演奏に誰もが集中できました。これも心に残る演奏になった要因でしょう。大変満足。
エルガーやっぱりやりたいな…。

情熱と知性 5/21バッティストーニ&東フィル

東フィルさんには「運営ボランティア」なるものがありまして、チラシのパンフレットへの挟み込みと開場時のパンフレット配付を無償でお手伝いするものです。今回それに初めて応募し、そのまま中で聴かせて頂きました。

東京フィルハーモニー交響楽団
第94回東京オペラシティ定期シリーズ
指揮:アンドレア・バッティストーニ

ロッシーニ/歌劇『コリントの包囲』序曲
ヴェルディ/歌劇『シチリア島の夕べの祈り』より舞曲
プッチーニ/交響的前奏曲
レスピーギ組曲シバの女王ベルキス』
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今話題のイタリアの若き鬼才バッティストーニ、これまでなかなか聴く機会がありませんでしたがようやく演奏に触れることができました。先日のトゥーランドット全曲は仕事中片耳には入ってきて、凄いなあとは思ってましたが。

ロッシーニからレスピーギまで、イタリアの作曲史100を時代順に並べた意欲的なプログラム。ローマ三部作で名演を残すこのコンビが今日メインに据えるのは同じレスピーギのベルキス…!吹奏楽出身なら誰でも興味を持つでしょう。そうでなくても、バッティストーニの指揮で、レスピーギの最大規模の曲を実演で聴けるのはとても幸せなもの。

お仕事を終えてそのまま席へ。
1曲目、「コリントの包囲」序曲。出だしから芳醇な香り高い音色に魅せられる…!東フィルってこんな音でしたっけ…?
2曲目、「シチリアの晩鐘」より舞曲。舞曲ばかりいくつも集めたゆえに、やや単調になりがちなこの曲。でも今日の演奏はいっこうに飽きが来ない、それどころか一歩一歩引き込まれ続ける…!木管のソロがどれも歌心に充ちた素晴らしいものであるとともに、トランペットが冴える…。強靭で、それでいてうるさくなく、安定感があり、理想的なトランペットってこういうのを言うんじゃないでしょうか。

後半に入ってプッチーニの交響的前奏曲。初めて聴く曲です。プッチーニ24歳、ミラノ音楽院卒業作品とのこと。オーケストレーションは厚く効果的だし、ヴェルディよりもむしろワーグナー的な響きが実に面白い曲。大変気に入りました。
木管による主要主題の提示、何と美しいサウンドでしょう…!この美しいサウンドに、展開部でトランペット・トロンボーンの鮮やかなファンファーレが重なる。その輝かしさといったら。ものすごい音圧なのに、決して割れずうるさすぎず、美しい…。この演奏のお陰でまたひとつ好きな曲が増えました。バッティストーニの指揮は、劇的ながらも決して流れに溺れることなく鮮烈で、この曲の魅力を最大限伝えるもの。

そしていよいよベルキス。1.ソロモン王の夢→3.戦いの踊り→2.夜明けのベルキスの舞い→4.饗宴の踊りという曲順での演奏。大管弦楽がステージにひしめく凄まじい光景。
第1曲。冒頭からフルートとクラリネットのアラビア風旋律が歌に充ち神秘的で素晴らしい…!その後、愛を語るチェロのソロ。ここまでやるか、と言わんばかりに鳴らしきります。凄い…。ハープ・チェレスタ・グロッケンが加わって曲に速度がついてくると、オケの洗練された響きは加速度的に濃度を増してゆく…。
第3曲。冒頭の金管の雄叫びはハイテンションで音圧に圧倒されるが、決してうるさくない。これってなかなかない、素晴らしい…。続く打楽器、ミリタリードラムに導入される戦いのテーマは圧巻。レスピーギの大管弦楽がオペラシティいっぱいに響く…。
第2曲。一転してフルートのエキゾチックなメロディから導入されるこの曲は、木管陣の美しさが光ります。イングリッシュホルンなんかもつ惚れ惚れするくらい…。チェロやヴァイオリンのソロも恍惚感があって引き込まれる…。
第4曲。ソロモン王とベルキスの結婚を祝うなんてとても思えないような、狂乱状態の音楽。打楽器も金管もオペラシティ全体を震撼させる、でも決してうるさいとは思わせないサウンド。そこで登場するバンダのトランペットはオケの力強いトランペットとは対照的に恍惚としたような魅惑のサウンド。その後の強烈なファンファーレからの大団円。圧倒的名演。

今をときめくバッティストーニ&東フィルの感想はもちろん大満足。全体的に、もちろん若い指揮者の若さ、あるいは情熱ももちろん感じるのですが、それ以上にむしろこの人の音楽は美質、知性が魅力だと思います。一つ一つの場面展開を克明に描き分け、ライヴ感ある盛り上げ方をしながらも、決して勢いに流されることなく、丁寧に曲を作り上げていく。その結果、打楽器や金管の強烈なサウンドも決して飽和しない。なんて大きな器なんだ…。

東フィルさんのこのお仕事、また機会があればやらせて頂きたいなと思ってます。