幽玄の森

一般大に通うアマチュアテューバ吹きによる、コンサート感想中心のブログ。たまに聴き比べや音楽について思うことも。

「お国もの」演奏について考える

先日、東欧の某小国の国名を冠したフィルハーモニー管弦楽団の演奏に触れる機会がありました。某国というのは、ドヴォルザークの故地に程近く、1990年代まで隣国と一体であった国です。演奏に"触れる"というのは、客席で聴いたわけではなく、また「演奏を聴いていた」等と公言できる立場にもないので、どうかお察し下さい……。

さて、その某オケについて、私はあまり詳しくは知らなかったのですが、いくらかのドヴォルザーク録音などを耳にしたことはあり、「なんとなく来日招聘されてはいるけど、そんなにすごいオケではないだろう」等と高をくくっていました。一介の実力もないアマチュア奏者にして不遜だと言われるでしょうが、しかしコアな音楽ファンでも、同じ額を払うならより有名なオケ、あるいは自国のオケにというのが自然の心理というもの。演奏するのはドヴォルザークなのですが、「それならチェコフィルでいいじゃないか」等とさも分かったかのようなことを平然と言いかけもしました。

では実際に耳にしてどう感じたか。これが意外と、いや大変に素晴らしい演奏なのです。アンサンブルや弦楽器の音色など、もっと上手いオケは日本国内含めていくらでもあるだろうけれど、そういった技術的問題など全くどうでも良くなるほど説得力のある"何か"を、そのオーケストラは持っていた。演奏したのは1つ1つのフレーズに強い思い入れを感じさせる歌い込み方、ここぞというときの咆哮、トゥッティの強奏が終わった直後のはっとするような温かい静寂。
これが「お国もの」(厳密には隣国だが…)を演奏するということなのか、と素人耳ながらはっと気づかされ、また何か普段のコンサートであまり感じない温かい気持ちを抱きました。
「お国もの」否定派の方からは一人のみの感想だろうと言われてしまいそうなので触れておくと、客席の反応も大変温かなものでした。ホール内を見る限りどちらかといえばコンサートに不慣れな方が多いように見えたとはいえ、そういった方も、足しげく演奏会に通う知人数名に訊いた反応も、大変良いものでした。アンコールのスラヴ舞曲15番が終わると会場内にはスタンディングオベーションも見えました(なお余談ながら、ここで"不慣れな方が多い"という文字列を見て「耳が肥えていないからだ」などと言い放たれる方は結構、お高い"一流"コンサートだけ厳選して行かれたほうが本人にとっても周りにとってもお互いに幸せなので。)


近年こんな声を耳にすることがよくあります。曰く、「チェコの指揮者やオケにスメタナドヴォルザークばかりを、フィンランドのオケや指揮者にシベリウスばかりを演奏させる安直なプログラムはもうやめろ」と。確かにこれは一理あって、例えばチェコフィル常任のビエロフラーヴェクによるブラームスサロネンによるマーラーなど、お国ものに限らず良い演奏は山のようにあるのはもちろん事実です。さらに、それにも関わらずビエロフラーヴェクは来日すればドヴォルザークを多く振り、サロネンは来日すればシベリウスを多く振っているのもまた事実。これは確かに勿体ない。
しかし、こうした事実をもってして「国名を宣伝に使った商業主義」などと非難するのは当たらないでしょう。「お国もの」演奏がしつこいほどに行われるのはなぜかと問えば、それに意味があると多くの人が感じるからなのです。私は先日の某オーケストラでそれを強く感じました。

もっとも、ドヴォルザークという作曲家はチェコ民族主義者というよりはむしろオーストリア・ハンガリー帝国において偏狭な民族主義を超越しようとしたコスモポリタンとしての一面もあるから、ドヴォルザークをこうした論拠とすることに違和感を持つ人もいるでしょう。また、「お国もの演奏の意味」という問いをより敷衍すると、「そもそも民族アイデンティティなど幻想に過ぎない」などといったポストモダンの"先進的"意見や、「音楽は民族の枠組みを超えて人々に届くからこそ良いのだ」という批判もあるかもしれません。
だが少なくとも、一人一人の作曲家は、生身の人間として?その祖国に生き祖国の空気を吸っていたわけであり、同じ空気感を知る人というのは外の人にはない特有の強みなのだと思います。現代の日本でも、たとえば日フィル首席指揮者のラザレフ指揮するショスタコーヴィチが、当時の空気までも感じさせる演奏であるのを体感して頂ければ、少しくこの点を理解頂けるのではないでしょうか。
「空気感の共有」に加えて、「言語の共有」という要因も忘れてはなりません。バルトークのヴァイオリンコンチェルト1番を演奏するルーマニア人ヴァイオリニスト(ご芳名は失念……。)がこんなことを言っていたのをよく覚えています。「バルトークの音楽は非常に難解だが、その一見複雑な変拍子ルーマニアの言語感覚に近く、私たちはこの作曲家と同様に呼吸し、一体となって演奏できるのです。」なるほど、武満徹の音楽に触れたときに(邦楽器のみによるわけでもなく)何となく感じる日本の息吹もこれに近いのかもしれません。


念のために付け加えておくと、もちろん私は「お国もの」意外の演奏の価値を否定するものではありません。私自身、在京オケをはじめ日本国内のオーケストラは年中聴きに行くし、それに海外オケと同等あるいはそれ以上の感銘を受けることも多いです。しかし、本場ものには本場ものならではの良さがあるのだという点は強調してもしすぎることはないように思うし、また、逆に「本場もの」の価値があるからこそ、本国人ではない者による演奏にも別個の固有価値が生まれるように思います。

実を言うと、私自身、大好きなビエロフラーヴェク&チェコフィルの来日プログラムに「わが祖国」「新世界」が並んでいるのを見て辟易していたタイプでしたし、今でもそういったプログラミングがいささか安直すぎるのではないかという感覚はあります。でも、考えてみれば古くはアンセルメラヴェルやライナーのバルトークなど、新しくはインキネンのシベリウスやインバルのマーラーなど、母国を同じくする演奏家に優れた演奏が多いことにはすぐに気づかされますし、こういったプログラミングは単に客引きというわけではなく、やはりそれなりに意味があるのだと、今改めて思い直しているところです。

ちなみに、ここからさらに脱線して「オケで重要なのは技術なのか?」や「逆にお国ものではない演奏に固有の価値とはなにか」、「演奏会により多くの方に足をお運び頂くために取り払わねばならない垣根」などまで書こうとしてましたが、どうにも冷静な判断力を失っているような気がするのでここまで。